ヒマラヤ登山の記録 Ama-dabulm(6856m) 1980年秋
イエティ同人東京ヒマラヤ登山隊 アマ・ダブラム峰

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Ama-dabulm峰(6,856m)
北面を望む。

私にとって始めての
ヒマラヤ登山でした。

この山を登りました。

 


 

山の雑誌「岳人」1981年4月号の記事から抜粋

《T母の首飾りUと呼ばれるアマ・ダブラムは左右に小ピークを従えた名峰で、
エベレスト街道から眺められる親しみのある山だ。だが裏側に秘められた北壁は
北稜と北西稜に囲まれ、雪と氷と岩の混じり合った2000m余の絶壁である。
 この山は1960年、E・ヒラリーを隊長とする登山隊によって初登頂された後、
登山禁止になった。18年ぶりに解禁になった78年、仏隊が南西稜を攻めたが、
絶え間ない雪崩のために山頂をあきらめ、6000mで敗退した。
 しかし、悪絶な北壁も日本の社会人クライマーの組織「イエティ同人」の39日
間にわたる不屈の登攀によって、そのベールがはがされた。彼らは雪崩やブロッ
ク崩壊の合間を縫って数々の難関を突破、初登攀、全員登頂に成功した。》
 

現地集合
始めての海外、始めての飛行機、初ヒマラヤ登山だというのに、この登山隊はなんとネパールのカトマンズで現地集合だ。貧乏登山隊なので輸送費を浮かせるため、登山装備を一人70〜80kgも持って、行くことになった。自分の体重よりも多い荷物を、海外旅行初心者がどうやってオーバーチャージを支払わずにネパールまで運んだかは、またの機会に書きます。(涙涙・・)途中バンコクで一泊して、飛行機を乗り換えなければ行けなかったのだ・・・。

さて、加藤隊長以下6名の隊員が、ネパールの首都カトマンズに無事集合したのは、9月1日。
このカトマンズからベースキャンプのある場所までは、交通機関のあるところは6分の1しか無い。バスを降りたらあとは15日間歩いて、山まで行かなければならないのだ。これがキャラバンと言う。

山の偵察や、カトマンズでの準備に時間がかかりそうなので、小川、寺西、冨田の3名が先発隊として出発する事になった。

バスで一番奥まで入り歩き出す。このキャラバン中、一番感じたのは現地の人々との生活様式の差だ。
本当に慎ましい生活をしている。現代文明から取り残された世界だ。この当時はラジオも持たない家庭が多いようだった。
しかし、そこで出会った多くの子供達の笑顔には本当に心洗われる思いだった。


タマンの子供達




 


ホテルの部屋
一泊2食付きで
15ルピー(約180円)
虫に食われるのでナイロンの
シートを広げて寝た。 

このキャラバンの間、荷物運びのポーターに、
一人の成年を雇った。18才だという彼は、
タマン族の人で、我々の友人に似ていること
から「遠藤君」と呼んでいた。本名は忘れた。
一日25ルピー、約300円の日当。それで30kg
の荷物を担ぎ、一日中歩いてくれるのだ。
日本ではジュース3本分だが、こちらでは
充分に大人の男が稼ぐ額だという。  

歩き始めて7日目

左から私、小川隊員、寺西隊員、ポータの「遠藤君?」始めてドードコシ川を渡る。もう少しだ。

 

 

10日目
やっとヒマラヤの
高峰達の山麓の村
に到着。
 

 

  

シェルパ族の故郷
ナムチェ・バザール
で、週一回土曜日に
開かれる市

いよいよ山に近づいて
来たので気持ちが高揚
してくるのが解る。


 
  

目指すアマダブラム峰が見えた。
右の天に向かってそびえる山。

奥の山はローツェ、エベレストも
少し見えている。

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